ペパーミント・キャンディー「人生は美しい」とは誰の言葉か

日本版のトレイラーがつべに上がっているが、「人生は、美しい」というフレーズを前面に押し出している。この先回りの広告の打ちかたが気にくわない。


トレイラーとしてはある意味で正しい。しかし本作品において「人生は美しい」というフレーズは、常にアイロニカルに響くものとして提示されていたはずだ。
その機微から受け取ったものに、できる限り形を与えておきたい。以下に述懐する。

 

「人生は美しい」。このフレーズをヨンホが口にしたシーンは二度あった。


一度目(ヨンホの人生においては二度目)は、自身が暴力的な尋問を加えた相手と偶然に再会した時のことであった。気まずい再会ははじめ、相手が連れていた幼い息子を挟んだ社交辞令的やりとりとして果たされる。しかしその後、用を足しにいった便所で出くわす。居心地悪い空間。二人きり、話すことなどない。そしてヨンホは言う。「人生は美しい だろう?」
すでにヨンホはいくつもの反証を経験している。
相手の男はただ「ええ」と返し、去る。言葉が、なんと空虚に響いたことだろう。男は去るが、我々にだけその本心を表情で見せる。不快そのものの表情。

 

二度目(ヨンホの人生においては一度目である)は、先の男への暴力的な尋問の末、口を割らせた後のことだ。「人生は美しい」とは、その若い男のノートに書いてあった言葉なのだった。
おそらく書きつけた時には、率直にそう信じていたのであろう男に、ヨンホはその言葉を鏡のように、嗜虐的につきつける。
男はヨンホを化け物か鬼でも見るように見ている。ヨンホも本当は知りたい。人生は美しいと言えるのか。言えるならば、なぜこうなのか。しかし男は答えない。男には淡々と問うヨンホが恐ろしく、人生の理不尽として映ったのではないか。

 

いずれのシーンも、一般的な意味での人生の美しい側面が描かれているとは言い難い。明らかに言葉はアイロニカルに響いている。本当にそうか? 我々は問われる。人生は美しいのか?

 

最後のシークエンスは、ヨンホが学生時代、初恋の人と出会ったピクニックの場面である。今までのいずれのシーンにも見られなかった明るさがこのシーンの内部にはある。逆行する列車の終着点がここだからだ。
最後にヨンホは橋脚の下で涙を流した。
この涙の理由は、取りこぼしを恐れずに言うならば、ヨンホが人生の美しさに気づいたことによるものだ。加えて言うならばこの涙は、時間軸上の現在から過去へ向けたまなざしが引き起こす涙である。つまり回顧であり、またヨンホにおける時間軸上の現在とは死の直前、つまり人生の終点であった。
「人生は美しい」ことを肯定しうる条件がここには含まれている。

 

ヨンホに「人生は美しい」と認めさせた条件は、「人生が総体として定まること」であろう。それは作品という閉じた時間を観る我々にも言えることだ。言い換えよう。区分されない対象に述語は付与できない。人生という進行中の事態に対し「美しい」かどうかの真なる言明を可能にする手段は構造上二つしかない。全体ではなく部分に対して言明を行うか、あるいは定まった全体に対して言明を行うかである。
人生を生きるヨンホではなく、人生を「生きた」ヨンホでなければ人生の美しさはわからなかった。ヨンホは死の直前にして、総体としてもうこれ以上変動しない人生というものを見つめるのだ。
ここでいう人生の美しさはしかし、人生の時々の内容やその軌跡といったものではない。人生という「枠」そのものだ。存在そのものとも言えるだろう。

 

結論を述べる。
翻って我々がもし、人生は美しいと感じるのだとしたらそれは一時の気分にすぎない。あるいは、ペパーミントキャンディという作品を観て人生は(苦しみつづけたヨンホのものですら)美しい、と我々が感じるように、作品において提示される人生というものに対して述語を与えるしかない。
だから、我々が自分自身の人生に対して「美しい」と判断を下すことは、ほとんどの場合欺瞞であると言っていいはずだ。我々に許されていることは、己の人生も(ヨンホと同じように)やがて定まり、逆照射されて人生は美しいと断定できるという可能性に思いを馳せるのみである。そしてそれだけで充分だ。
ヨンホを眺める己のアナロジーとして、己を眺める判断者(それが己自身であるといわれるとしても)を措定することが羽の生えた理性を持つ我々には可能だ。少なくとも言えるのは、ヨンホ自身にはついぞ届かないまでも、観る我々が、ヨンホの人生は美しいと言明することができる、ということだ。
「人生は美しい」という言葉が、我々の人生の外側に浮かんでいる。その言葉は、我々の人生とは一切触れ合わない。我々はそれをただ眺めるのみだ。だいたいの見当をつけて、とある方向へ。時には目を閉じたままに。

 

おわりに、ヨンホの視線について語る。
はじめの(最後の)シークエンスで列車に立ち向かうヨンホと、最後の(はじめの)シークエンスで橋脚の下で涙を流すヨンホは、どちらも上方を向いていた。
その瞳は、ヨンホの人生の外側にいた我々をめがけ、ついに視線は合わないまでも答えを求めていたのだと考えることが、どうしてできないだろうか。